Vivienne Wwstwood氏本人にヘッドハンティングされた男の実力は Jean Paul Gaultierさえも振り返らせた!

  1. アーティスト

世界のハイブランドが認める日本人デザイナー KATSUYA OOE

Vivienne Wwstwood氏本人にヘッドハンティングされ若干20歳でVivienne Wwstwoodに入社しTOP5のデザイナーとなった䯨氏。世に出ている作品は全て過去のものであり常に0→1を生み出し続けるのがデザイナーであると語る。恐らく同年代の日本人デザイナーでOOE氏ほどの体験・経験を積み重ねてきたモノはいるのだろうか?他人の作品をベースにディティールを変えたアレンジをしているデザイナーも多いのでは?と思えてしまった。感性を高めインプットをし続けたからこそ生み出せるデザインがある。だからOOE氏のデザインは日本人離れしているという評価を得ているのだろう。

 

 

父はアルマーニを日本に持ち込んだ

父は商社に勤めていて一つの使命として日本にGiorgio Armaniによって設立されたブランドである「ARMANI」を日本に持ってくることでした。そのため、産まれてすぐ家族でイタリア・ミラノに移住。そう聞くと一見華々しい話に聞こえますが幼少期の私にとってはかなり辛い思い出もあります。姉は小学生でしたので現地の日本人小学校に通ったのですが私はまだ幼く現地ミラノの幼稚園に入園させられました。

両親は日本人ですので家では日本語、幼稚園では全くわからないイタリア語。毎日泣きながら幼稚園に通っていたのを今でも鮮明に思いだします。母親に連れられ幼稚園の園門まで行くのですが毎朝、幼稚園に入りたくないと泣きじゃくり母親の手は離すまいとしがみ付くのですが幼稚園にいる警備員が「幼稚園に入れ」と私の両足を抱えあげ母親から引き離すのです。先生もどう接して良いか困っていたと思います。

 

ピエロに救われる

当時のヨーロッパは移動式遊園地や移動式サーカスが盛んで、それが唯一の娯楽的な楽しみでした。初めて観たサーカスの雰囲気に子供ながらに感動したのを覚えています。言葉を発せず表情や動きだけで会場のお客様とコミュニケーションを取るピエロの存在に強く惹かれました。

翌日、いつも通り幼稚園に行くのですが、変わらず分からない事だらけなので自然とピエロの絵を書き始めていました。来る日も来る日もオリジナルピエロを描いて1ヶ月ちょっとで教室全体がピエロの絵で埋め尽くされていたのです。知らぬ間に先生が壁に貼ってくれていたのですね。

それから現地の子供達とも私を面白いやつと認めてくれたのか少しずつコミュニケーションが始まりました。ピエロは世界共通で会話をせずとも子どもたちにも伝わるしカラフルで色彩豊かな部分も自己表現として意思疎通出来たのかもしれません。同級生のホームパーティや誕生日会に呼ばれたり仲良しの女の子も出来たりと楽しく過ごせるようになりました。

将来的に日本に戻るので小学校は日本人小学校に入り小学校2年生までイタリアにいました。

 

日本でまたゼロスタート

日本人学校に通ってはいましたが「あいうえお」も書けない状態で愛知県の小学校へ転入しました。親は家族を養うために仕事をしてくれていたので親に責任はないのですが子供ながらに結構、苦労しました。愛知には1年だけで翌年は奈良の小学校へ転校。日本語も正しく話せないし子供の中で流行っている「ウルトラマン」や「仮面ラーダー」も知らない。

友達に「何か話せ!」と言われるから話すと日本の事は知らないので海外の話をすると「なにかっこつけてんねん!」っていじめられる毎日でした。学校行くのが嫌になっても親は行けと言うし、終いには校長先生に親が呼び出され「帰国子女の学校に通った方が良いのでは?」と言われる始末。

だけど帰国子女を受け入れる学校は当時、奈良にはなく片道2時間近くかかる同志社や関学しかないので親から「がんばって」と言われました。

ずっと我慢して通っていたのですがサッカーを通じて友達が少しずつ増えて行きました。日本に戻ってからは特に絵は描くことはありませんでしたが授業などで描く水彩画などは校内で何かしらの賞は取っていました。

どちらかと言うと小学校でサッカー、中高ではバスケと勉強せず運動ばかりしていました。

 

映画のようなシーン1

日本にいても落ちこぼれ組になりそうな気がしたのでイタリアに戻って何かやってみよう!と高校を卒業しヨーロッパを1周しました。

中学生の頃からVivienne WwstwoodやJean Paul Gaultierの服は好きだったので着ていました。ロンドンでたまたま見たVivienneの服から強いインスピレーションを感じ(面白い!ファッションをやってみたい!)と思ったのです。

帰国して父親にファッションの道に進みたいと話すのですが、父親はファッション業界に長年携わっているのでデザイナーは儲からないし苦労するから辞めろ!と大反対。でも最終的には、やりたい事があるなら1回イタリアで勉強し、その後、違うことをやっても良い。と了承してくれました。

イタリアで一番の名門校であるISTITUTO MARANGONI(MILANO,ITALA)に入学し、1〜5限を毎日通うコースは性格的に無理なので自由選択コースを選びました。最終的に2年弱で日本でいう大学院にあたるファッションデザイン修士の資格まで取りました。

たまたまその日、真面目に参加した授業にVivienne Wwstwood氏が学校に来たのです。Vivienne Wwstwood氏が、私が描いたデザインを見るやいなや「面白いデザイン描くからうちで働きなさい!」と言ってきたのです。

初めて本人を目にし、しかも自分がデザインをはじめたきっかけもロンドンで見た彼女の洋服がきかっけだったので夢じゃないかと思うほどに大興奮!!

VivienneかGaultierのどちらかに行けたら良いなぁ〜と何気なく思っていたので、声を掛けて頂いた時はチャレンジして良かった!と思えました。

卒業と同時にロンドンに行くのですが何せ英語が話せない。Vivienneは英語で説明した後に若干20歳の私のためだけにイタリア語で説明をしてくれました。Vivienne社はロンドンでしたが8割はイタリア人なので助かりました。デザイナーも5人いたのですが3人はイタリア人でそこも救われました。

 

TOPデザイナーの仕事

入社してスグにアーカイブに入れられました。第1回目のコレクションから最新のコレクションまでの衣装がしまわれている倉庫。アトリエの一室にボディーを立て第1回目の衣装からボディーに洋服を着させてカメラで写真を撮るのです。誰も正しい着せ方を教えてくれません。自分で想像してボディーに衣装を着せるのです。4ヶ月弱かかりました。時間は相当かかりましたが有難かったです。

写真を撮り続けるだけではなくコレクションのデザインも手掛けていました。

Vivienne社のデザイナーは全員Vivienne本人がデザインを気に入りヘッドハンティングしているのである意味即戦力としてどんどんデザインを描き上げていました。入社半年で私がデザインした衣装がコレクションに採用されましたが、どこで使われたか詳細までは把握出来なかったです。

ショーの裏方では秒単位でモデルに服を着させたり、まるで戦争状態なのでランウェイを見る余裕なんてゼロなのです。

 

世に出す1秒手前までこだわり続ける

Vivienneはランウェイに出る直前の場所に立ちはだかり、人の目に触れる1秒手前まで考え続けます。昨夜はOKだった衣装も「これ違う!」と言われ一斉にみんなで着替えさせるのは当たり前。

一番困ったのは最後のメインステージでのウエディングドレスの時でした。いきなり「パイプを使いたい。私のイメージはパイプだけよ!それ以外はやっちゃだめ!」タバコは持っているがパイプなんて誰も持っていません。街にパイプを買い出しに行き出番1分前に戻り、火を付けてギリギリ間に合いました。この時はスタッフもモデルもアタフタして一番怖かった思い出ですね。

ショーは常にVivienne本人のイメージとの戦いなのです。この様にVivienneと直接仕事が出来たお蔭で自分の作品においても1秒でも世に出てしまえばそれは過去の作品であり、終わったものなので次を考えないと!と思える様になりました。

 

机の上では何も生まれない

4ヶ月弱の衣装撮影の期間が終わり机に座っているとVivienneがやってきて「いつまで机に座っているの?机に座っていてもアイデアなんて浮かばないから!色々と見て来なさい!」と言うのです。最初は何を言っているか全く理解出来ませんでしたが確かにデザイナーは誰も会社にいないのです。

街に出たのですがロンドンを見ても仕方がないからイギリスの北部や南部に行ってみました。そのうち、ヨーロッパ各地に行ったり古城巡りをしたり、部族の服を見に行ったり。内装や建築にも興味を持ち、ライトの使い方、装飾、ガーデニング。毎日の様に違う国に行くので食や風習の違いも面白く、それらを携帯したメモにどんどん落とし込んで行くのです。

1000枚近く書き上げたデザインを提出し、怒涛のコレクションが始まり終わるとフリーになり、また色々な所に足を運び感性を高めてゆくのを半年周期で回すのです。半年なんてあっという間に過ぎて行きます。

この時、あらゆる国に行きあらゆるものを見たことでファッションだけでなくプロダクトのデザインも出来るようになったのだと思います。私にとって世に出ているデザインは全て過去の作品であり、デザイナーとは常に0→1を生み出すのが仕事だと思っています。

 

32歳で帰国しフリーランス

帰国するつもりは無かったのですが当時、ヨーロッパの失業率が高くなり政府の方針として同じデザイナーを雇用するなら異国の人間よりヨーロッパ人を採用する流れが強くなり労働ビザがおりなくなったのです。

それなら一度、帰国しようと32歳で日本に戻りフリーランスというスタイルでヨーロッパを中心に仕事を再開しました。1年間の8ヶ月はヨーロッパで4ヶ月弱が日本か他の国にいる生活をずっと繰り返していました。

フリーなのでVivienne以外の仕事も携わらせて頂きました。厳しい契約書を交わしているのでブランド名は言えませんが、誰もが知っている世界的有名ブランドばかりです。仮に自分が手がけた作品だと言ったとしても「嘘でしょ!」と誰も信じてくれないかと思います(笑

何故、海外中心だったかと言うと高校卒業と同時にヨーロッパに飛んだので日本で仕事を探すより海外の方がやりやすかったからです。

 

日本での初仕事

日本での初仕事は大手百貨店さんとの仕事でした。プライベートブランドのディレクションでした。私はイタリア語も話せるし、現地とのパイプもありデザインも出来るので重宝されました。

帰国後は自分のブランドも立ち上げバックやジュエリーなどを手掛けてゆきました。銀行から融資して頂いたのですが、これまでの実績を認めて頂きかなりの金額を融資頂きました。独立してすぐにパリでコレクションを開催し雑誌にも掲載され、HarrodsやGaleries Lafayetteなど世界的な有名百貨店からも声が掛かりました。だけど、デザインしかやってこなかったので掛け率や関税の事、契約書の知識などもなく、何も対応出来ず商談は破断(笑

日本の大手百貨店さん2社から1階に1コーナー設けて頂けるとお話を頂いた事もありましたが、販売的なマネージメント力が無いのでお断りしました。

 

映画のようなシーン2

コレクションするには膨大なお金がかかります。コレクションで評価は得るが商品化する力が無いので、借金だけが増え続け資金繰りが大変になりました。

この先どうして良いわからなくなり、自社ブランドを諦める時期なのかとフィレンツェを歩いていました。

今日でフィレンツェも最後かなと思った時、

ある男性が「そのカバン可愛いね!これどこの?」って声を掛けて来たのです。

声を掛けてきた男性の顔を見るとJean Paul Gaultier本人だったのです!

「自分がデザインした」(上部写真の黒いバック)と話すと。

Gaultierが「お前のデザインは世界で通用するからやり続けろ!」と言ってくれたのです。死をも考えていた状況だった自分はJean Paul Gaultierがわざわざ声を掛けてきてくれ評価してくれた事で救われました。

この出会いがあったからもう一度、奮起することが出来ました。

 

ネクストステージ

大量生産ではなくオーダーで仕事を受注するスタイルに切り替えました。

ヨーロッパなどのラグジュアリーブランドを日本で立ち上げるのは、社交界など着ていく場所の文化がないので厳しいと思っています。いまはプロデュース業やディレクション業などを行っており、ジュエリーやレザーグッズを手がけてゆこうと思っています。HERMESもGUCCIもスタートは革小物なのです。

世界的なマネージメントが出来る人と出逢えたらまたヨーロッパを中心に世界で勝負に出ます。今でもイタリアに戻ると「KATSUYA!コレクションやらないの?」って言われます。

プロダクトのデザインに関しても沢山手掛けてきましたが唯一手掛けていないのは車ぐらいになりました。そして、一番最後に手がけたいのは「遊園地」です。

悲しく苦しい子供時代、移動式遊園地が唯一楽しい場所で救われました。

これからも日本人には発想できないOOEデザインを世に生み出し続けるのですが、その生み出されたデザインの集大成を遊園地に集約して終えたいです。

その時、自分はどのようなピエロを描くのか今から楽しみであります。

 

 

プロフィール:

ISTITUTO MARANGONI (MILANO,ITALIA) 卒業 ファッションデザイン修士取得

䯨 克也 (Katsuya Ooe

【生年月日】 1975年8月25日

【血液型】 A型

【出身地】 ミラノ

学生時代に作品がVivienne Westwood氏本人の目にとまり、卒業後、Vivienne WestwoodLtd., 入社(LONDON, ENGLAND)
Vivienne Westwood氏本人を含めた5人のデザイナーの1人として活躍。 デミクチュールのファーストラインを担当し、年2回パリコレクションで発表
『GOLD LABEL』『ANGLOMANIA』などのレーベルをメインデザイナーとして担当し、1000 パターンに及ぶデザイン提案を実施。

その他、某国王子のパーティー衣装、 英国人歌手コンサート衣装なども担当。

フリーランスとしてもヨーロッパの有名ブランド、アトリエのコレクションデザインを手がける。

その後、「KATSUYA DESIGN OFFICE」を設立し、独立。 第一弾として、『OOE』BAGブランドを発表。 『新奇なデザイン』『最高のモノ』『リッチスタイル』をードに作品を発表。 ジャンポール・ゴルティエ氏からOOEバックを絶賛され、バッグの愛用者は女優・脚本家、首相 夫人にまで及ぶ。

その後、『OOE』 ジュエリーブランドも立ち上げ、店舗デザイン、プロダクト、インテリアデザインなど手掛け、またラジオ出演、MISS WORLD JAPANなどの審査員

精力的に活動中。

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